2014年07月の記事 | スリジャヤワルダナプラコッテ(仮)

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焼岳


上高地観光センター 歩く 焼岳登山口 歩く 焼岳小屋 歩く 焼岳(2455m)
 復路は往路と同じ。

焼岳という名を初めて頭に刻んだのは2年前、
西穂高独標から上高地に向かって下りている最中だった。
分岐点にある道標に「焼岳」と書いてあるのを見て
いつかこの山に登ってみたいと思った。
毎年夏になると日本アルプスのいずれかの山に登る。
たまたま山友達が「焼岳に登りたい。」
と希望したので、文句なしに焼岳に決まった。
焼岳は北アルプス唯一の活火山で、
その雄大な姿は上高地の入口、大正池から望める。
記録に残る主な噴火は5回あり、1915年(大正4年)の大噴火では
泥流が梓川を堰き止め、大正池を生み出した。

7月11日松本に前日泊、翌12日は始発の電車とバスを乗り継ぎ
上高地まで行き、その日に焼岳に登り下山、
河童橋たもとのホテルに宿泊して13日に帰阪する予定で、
その日が来るのを心待ちにしていたが、出発前に予期せぬ事が起こった。
7月9日、台風8号による影響により長野県南木曽町で
土石流が起こり、JR中央線までも飲み込んでしまった。
大阪から松本へ行く場合、新幹線で名古屋まで行き、
中央線を走る特急「しなの」に乗り換える。
中央線が不通になった為、その経路が断たれてしまった。
仕方なく行きは高速バスで松本へ、
帰りは特急を乗り継ぎ北陸回りで大阪まで帰る羽目になった。



JR松本駅にあった長野県南木曽町の土石流被害報告。



上高地観光センターから30分歩いて焼岳登山口へ。



岩壁に掛かる高さ7〜8mのハシゴ。



ようやく焼岳が姿を現した。



焼岳小屋で休憩。



焼岳山頂まで足元が不安定な岩場が続く。
あと二息、あと一息と山頂部を仰ぎ見る。



高山植物の可憐な花を見ると心が和む。



溶岩ドームから立ち上る噴煙を見て焼岳は活火山だと実感。



観光センターを出発して約5時間後、ようやく焼岳山頂に到着。
台風一過の晴天で素晴らしい景色を見る事が出来た。



西穂高、奥穂高を眺めながら昼ご飯を食べるとは何という贅沢。



山頂からはエメラルド色の火口湖が見える。



登山の翌日は生憎の雨模様で残念てんてん河童橋から雨に煙る焼岳が見えた。
山行記録 | 23:39 | - | -
真田幸村の足跡 大阪篇(2)


「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」
(関東武者は百万あっても勇ましい男子は1人も居ない)
これは大坂夏の陣における戦いの一つ、
道明寺の戦い で真田幸村が叫んだ有名な言葉である。
道明寺の戦いについてはまた後日書くとして
幸村がこの言葉を発した経緯だが、
1615年(慶長20年)5月6日、真田幸村は南河内誉田方面で
徳川方の伊達政宗・騎馬鉄砲隊と激突して蹴散らした後、
追撃しない伊達政宗軍を見て言い放ったという。
 「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」
 と叫んだ時の幸村は
 「クライマーズ・ハイ」佐山の如く鋭く熱く
 そして勇ましかっただろう。
 又々イカれた妄想をしてしまったが、
 「真田丸」三谷幸喜氏脚本にこの場面が
 あるとは限らず、勝手な想像するのは
 大概にしろと我ながら思う。
それもこれも「真田丸」主演決定以外の出演情報が
入ってこない苛立ちから妄想するしかなかった。
本題から脱線してしまったが、話を元に戻そう。
大阪市平野区にある 志紀長吉神社 は真田幸村が道明寺の戦いから
退却する途中に立ち寄り、刀剣と軍旗を奉納した神社である。
刀剣は残念ながら第2次世界大戦後、占領軍の命令で没収されたが、
麻布製で六文銭がくっきりと描かれている軍旗は今も神社に保存され、
年に一度のお正月に見る事が出来る。

志紀長吉神社 Map






真田幸村休憩所跡 Map




志紀長吉神社の大鳥居の近くには幸村参詣の折に休憩した場所があり
1935年(昭和10年)、幸村公休憩所跡の石碑が建立された。
石碑の裏には幸村が詠んだ句が刻まれている。
「御神徳をたたえ奉りて 思う心のうちの霧晴れて
 神の利生に任せこそすれ」
16年大河 真田丸 | 23:41 | - | -
真田幸村 雑記帳(2)


大阪城天守閣 ミニチュア夏の陣
真田幸村隊と松平忠直隊の激戦をミニチュア人形で再現

2016年大河ドラマ「真田丸」真田信繁役に決定! 堺雅人 のコメントで
堺さんは真田信繁49年の生涯の内、最期の1年間に
人生の輝きのほとんどが集中しているイメージを持っている
と仰っている通り、大坂の陣での活躍以外ほとんど知られていない。
真田幸村の生涯の中で埋もれている部分を
1つずつ紐解いていくべきだが、その作業は大変だ。
まず取っ付きやすい大坂夏の陣から調べることにした。


 大坂冬の陣の後、徳川家康は豊臣秀頼が大坂城を出て国替えに応じ
 徳川への恭順を示せと要求したが、豊臣は拒否。
 それにより1615年(慶長20年)
 徳川方は大坂城を取り囲み大坂夏の陣が始まった。
 5月6日、真田幸村は 道明寺の戦い において
 徳川方の伊達政宗隊とぶつかる。
 伊達政宗自慢の騎馬鉄砲隊に対して
 真田幸村隊は突撃し見事に追い散らした。
 この時、幸村は「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」
 (関東武者は百万あっても勇ましい男子は1人も居ない)
 と徳川方を嘲笑いながら撤収したと伝えられている。
 翌5月7日、幸村は豊臣方の士気を高める為、
 豊臣秀頼の出陣を求めたが、淀殿や側近衆に拒まれ失敗する。
 天王寺口での戦いでは真田幸村、毛利勝永等が
 徳川軍を引きつけている間に明石全登の軽騎兵団を迂回させ
 家康本隊を攻撃する作戦を立てるが、毛利隊が合図を待たず
 銃撃を開始してしまった為に作戦を断念せざるを得なくなった。
 幸村はこれに対し「今はこれで戦は終わり也。
 あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ」

 と言って家康本陣のみに狙いを定め
 三度に渡り突撃を繰り返した。
 中でも幸村率いる真田隊は10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ
 松平忠直隊15000の大軍を突き崩し、家康本陣にまで攻め込んだ。
 幸村の攻撃に家康本陣は大混乱に陥り後退を開始。
 窮地に追い込まれた家康は幾度となく切腹を口走ったと言う。
 「幸村十文字の槍を以って大御所を目掛け戦はんと心懸けたり。
 大御所とても叶はずと思し召し植松の方へ引き給う」
 (本多家記録)とあるが、
 奮闘虚しく幸村は茶臼山方面へ撤退する。
 幸村が四天王寺近くの安居神社の境内で
 兵士の手当てをしていたところを
 越前松平家の鉄砲頭西尾仁左衛門久作に襲われ
 「わしの首を手柄にされよ」という言葉を残して討ち取られた。
 享年49。
 幸村討死の翌5月8日、豊臣秀頼・淀殿は大坂城内で自害する。
 豊臣秀吉が栄華を誇った大坂城は炎上して落城。
 これで天下は完全に徳川のものとなった。

 大坂夏の陣の記述が最後に近づき
 幸村 最期の言葉「わしの首を手柄にされよ」
 を書いている最中、TOYOTOWN 家康風の
 幸村が静かに微笑みながら
 潔く言い放つ姿が頭に浮かんだ。
 想像だが、切なくかつ格好良い場面である。
 しかし戦の最中は兜をかぶっているか
 ザンバラ髪のはずだから有り得ない。
 それに家康は憎き敵である。その姿を借りるとは問題外だ。
 今頃になって気付くのは遅いが、CMtとドラマの違いはあるといえ
 敵対する者同士、家康と幸村の両方を演じる俳優は中々いないだろう。
 
大阪城天守閣 パノラマビジョン 大坂夏の陣


大阪城天守閣に大坂夏の陣図屏風があると知り、
小学校の遠足以来、数十年振りで天守閣の中に入った。
3階にある大坂夏の陣図屏風は重要文化財のため撮影禁止。
5階のパノラマビジョンは撮影可能だったので、あれこれと写真に収めた。





真田幸村隊の後にある鳥居は
四天王寺西門のものという記述があり驚いた。
この鳥居は子供の頃から何度もくぐっているからだ。

四天王寺西門 鳥居


早速、大阪城の帰り自転車に乗って四天王寺へ。
額束 はレプリカだが、鳥居本体の建立は1294年(永仁2年)で
わが国最古の石造鳥居の1つとして重要文化財に指定されている。
という事は大坂夏の陣当時、この鳥居付近で真田幸村は戦ったのだ。
そんな想像をした瞬間、今まで何も思わなかった鳥居にロマンを感じ、
我ながら勝手なものだと可笑しかった。
16年大河 真田丸 | 00:47 | - | -
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