真田丸 の主役、真田幸村(信繁)が堺さんに内定という
ニュースが流れた途端、大阪市天王寺区にある縁の地を巡り、
それから間髪を入れずに九度山にある真田庵へ行くつもりだったが、
その気持ちは除々に薄れていった。
「真田丸」への熱が冷めたのではなく、
初夏になって気温が高くなり、行くのが億劫になった。
九度山は日本有数の柿の産地としても知られているが、
柿は温暖な気候を好む。
という事は今行くと暑くて敵わない。
真田庵を訪れるのは今回で三度目だが、
7年前の6月、夫と2人で真田庵に立ち寄った後、
町石道 を歩き上古沢駅まで向かった。
その時、九度山の柿畑は遮る物が全くなかった為
直射日光が容赦なく降り注いだ。
6月22日、急に思い立って九度山へ出掛けたのは
天気が雨のち曇りで、町石道を歩くのに最適だったからだ。
和歌山県伊都郡九度山町にある真田庵は
正式名を善名称院といい、真田昌幸・幸村親子
隠棲の屋敷跡として県の史跡に指定されている。
創建は1714年(寛保元年)であり、九度山出身の大安上人が
真田昌幸の墓所に地蔵菩薩を安置した仏堂を建立した。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の合戦で真田昌幸・幸村は西軍に加わったが、
敗戦により幸村親子は死罪に処せられるところを
東軍についていた兄・信幸の嘆願により
これを免れ高野山(蓮華定院)に蟄居を命じられた。
しかし高野山における生活が厳しかった為、翌年住まいを九度山に移し、
14年に及ぶ隠棲生活を送る事になる。
1614年(慶長19年)、方広寺鐘銘事件を切っ掛けに
徳川と豊臣の関係が悪化。
徳川家康が豊臣追討を命じると大名の加勢が期待できない豊臣は
浪人を集める策を採り、幸村の元にも使者を派遣した。
幸村は家康に一矢報いるべく九度山脱出を決意。
村人や監視役を集めて酒を振舞い、
酔ったその隙に九度山から大坂城へ向かったという逸話がある。
この話は幸村の智将ぶりが伺える伝説だが、
実際村人の協力がなければ脱出できなかっただろう。
その後、大坂の陣における幸村の活躍は周知の通りである。
真田庵には資料館が併設されており、
玄関に置いてあった解説文集によると幸村はこう評されていた(一部抜粋)
九度山での幸村の見事さは終始柔和で
わが身を腐らせず、逆境にあっても落ち込まず、
心を荒ませず、つねに自然体で世をすねていなかったことだ。
戦闘指揮官としての幸村ははるかに巨大な相手に挑み、
撃破するという奇襲戦法も可能なり。
リーダーとして完璧な器量を備えていた。
夏の陣の悪戦苦闘の中にあって悲壮感さえ
浮かべていなかったことであろう。
あまりにも不適な惚れ惚れする武将ぶりは、
部下からの信頼に見事に応えている。
幸村は柔和で心やさしい人物であったと
兄の信之の追懐の言葉にある。
堺さん扮する幸村が三谷幸喜氏の手によって
どのように描かれるのだろうか。
講談や小説のイメージ通りに勇ましく格好良い幸村かもしれないし、
史実通り柔和で心優しいが、冴えない風貌の武将という設定かもしれない。
堺雅人で大河決定の武将・真田幸村 実は超ブサイク!?
確実に分かっているのは幸村が智将である事と
見目麗しく凛々しい武将でも顔面が残念な武将でも堺さんなら演じ切る事と
再来年1年間は毎週楽しみで小躍りせんばかり、という事だ。