3月21日、22日二夜連続で放送された
黒部の太陽
黒部ダムは中学校の修学旅行と家族旅行で2回訪れているし
ダム建設に興味があったので、途切れ途切れながら見ていた。
それで思い出したのが黒部ダム近くの大町温泉での恐怖体験だ
恐怖を語る前に黒部ダムについておさらいを。
黒部ダム
戦後、経済復興に伴い深刻な電力不足が発生し
関西地方では停電が頻発。
私が幼児の頃はそのせいで蝋燭と懐中電灯は必須だった。
電力不足を打開すべく豊富な水量に恵まれ
急勾配で大きな落差をもつ黒部峡谷が水力発電の適地として選ばれたが
工事に必要な資材をすべて輸送するのは
富山方面から標高約3000mにも及ぶ立山の峠を越えるルートしかない。
そこで資材運搬の為、ダム予定地まで
大町トンネル (関電トンネル) を掘る事を決定。
1956年 (昭和31年) 7月、トンネル建設工事が始まった。
全断面掘削機を導入し、トンネル掘削の工事は
厳冬期も休まず作業が続けられた。
ところが1957年 (昭和32年) 5月、2600m地点で破砕帯 (※) に遭遇。
毎秒660リットルもの大量の水と土砂が噴出し、171名の犠牲者を出した。
破砕帯の対策として水抜き工事や様々な努力の効果によって
同年12月、ついに破砕帯を突破。
その後、トンネルの工事は順調に進み
破砕帯突破から約半年後の1958年 (昭和33年) 5月
ついに大町トンネルは開通した。
これにより資材の搬入ルートが確保され
黒部ダムと黒部川第四発電所の建設が本格的に始動した。
※ 破水帯
岩盤の中で岩が細かく割れ、地下水をため込んだ軟弱な地層。
ドラマ 「黒部の太陽」 でトンネル内に
水が溢れ出したシーンを見たその時、9年前の恐ろしい思い出が蘇った。