高野山の隠れ名所 「平家の集落跡伝説」 の他にもう1つ見たい所があった。
それは高野街道の中程にある
日本最後の仇討ち跡 Map
赤穂浪士の討ち入り、曾我兄弟の仇討ち等、子供の頃から
仇討ち話が好きだったので、日本最後の 「高野の仇討ち」 に興味津々。
日本最後の仇討ちとは
高野山よもやま記 と仇討ち跡の看板から抜粋してみた。
1862年 (文久2年)、赤穂藩家老、森主税と
その師、
村上真輔 (保守派・佐幕派) が
下級武士、
西川邦冶ら (勤皇派) 13人に暗殺された。
家督相続争いと幕末における勤王佐幕などの思想が絡み合い
起こった事件として捉えられている。
下級武士が藩の重臣を暗殺する暴挙は通常ならば大罪。
しかし、
村上真輔に失脚させられた森継之丞が藩政に復帰した事で
西川一派は咎めもないまま赤穂から脱出。
この時、土佐藩士が
西川一派の味方となっていた。
一方、村上家はお家閉門断絶といった公平ではない裁定が下されてしまう。
この時、村上真輔の遺児、
村上兄弟は仇討ちの意志を固めたと言われる。
ところが1年後、
西川一派が帰藩してみると
藩の態勢が変わり、彼らは脱藩、逃亡しなければならない状態に陥り
最初13名だったのが6名まで減ってしまった。
世は明治維新となり、村上家の再興が認められる。
今度は
西川一派の処置に困った藩が
彼らを藩の墓所、高野山の釈迦文院の守り役に任じた。
高野山は犯罪者であっても生命の安全が保証された特異な場所。
西川一派が高野山へ逃げ込む事前情報を察知した
村上兄弟は本懐を果たすべく、高野街道を詳細に調べ
十分な手配りをして待ち伏せていた。 1871年 (明治4年) 2月の事である。
西川一派6名の先回りをした
村上兄弟他8名
は 「黒石」 がある峠で名乗りをあげ、抜刀した。
午前10時頃から壮絶な戦いが繰り広げたと言われている。
不意をつかれた
西川一派6名は全員討ち取られた。