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真田信繁 幽閉の地 蓮華定院


真田丸が放送され、真田信繁が幽閉された高野山が舞台になったら
大勢の人が押し寄せるかもしれない、そうならない内に見学に行こうと
去年の11月、その地である蓮華定院を訪れた。
蓮華定院は室町時代に長野の豪族の宿坊として
契約を結んだという記録がある。
その縁で豪族・海野氏の一族でもある真田昌幸・信繁親子は
関ヶ原の戦い(1600年)で西軍につき敗れた後、
高野山に蟄居を命じられ、蓮華定院に幽閉された(同年10月9日)
当時の高野山は女人禁制の為、信繁の妻子は九度山に残しており
昌幸・信繁は許しを得てその年の冬に九度山へ下る事になって
蓮華定院に滞在した期間はわずかだった。
しかし、蓮華定院には最初に描かれた信繁の肖像画や
書状など貴重な物が残されている。



向かって右奥の障子窓がある部屋が
昌幸・信繁親子が滞在した上段の間である。
ただ残念なことは江戸時代に蓮華定院が焼失してしまい、
現在残っている部屋は再建されたもので
実際に信繁が滞在した場所ではないが、
上段の間は焼失前と同じ位置に復元したという。



上段の間から二部屋向こうが食事処で、
食事の世話をして下さった僧侶が夕食後に
「奥の部屋が幸村が滞在した部屋です。ご覧になって下さい。」
と仰ったけれど、この言葉に色めき立ったのは私だけだった。



蓮華定院に残る信繁の肖像画は最初に描かれた
肖像画といわれているもので、各地に残る幸村像はこれを写したとか。



信繁が1612年(慶長17年)頃、信之(信幸)の家臣宛に
焼酎を送って欲しいとお願いした書状が残されている。





書状を訳してみると下記の通り

 この壺に焼酎を入れて下さるようにお願い致します。
 今、お手持ちがなければ
 この次でも構いませんからお頼み申します。
 難しいと思いますが、壺の口をよく閉めて
 その上壺の口を紙で目張りをして下さるようお願い致します。
 知らせがあり次第で取りに伺います。
 つまらないものですが、湯帷子(ゆかた)を一領差し上げます。
 どうか壺二個の焼酎のことをよろしくお願いします。
 この外にも余分に何かあれば頂きたいと思います。
 六月廿三日 真好白
       信繁 (花押)
 左京殿


囚われの身でありながら比較的自由だったと書状から窺い知れる。
ただし金銭面では苦労していたようだ。
わずか数ヶ月で高野山から下りた信繁は
秀頼に請われ大坂城に入城するまで
14年間にも及ぶ蟄居生活を九度山で送ることになる。
16年大河 真田丸 | 17:27 | - | -
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